ふべつざん   れ  ん  こ  う  じ

 負別山
   蓮光寺             


当山は浄土宗で、知恩院(京都市東山区)を本山としている。山号を負別山(ふべつざん)という。<おいわけざん>ともいう。
 明応元年(1492年)に天台宗真盛派開祖の真盛上人を開基とし、高野山の苅萱堂を模して下京区新町高辻に草庵を結んだことから、当初「萱堂」と称し、天台宗に属していた。天正19年(1591年)豊臣秀吉の命により現在の富小路通り六条に移り、真盛上人の弟子、玉譽光順上人が浄土宗に改め、二世順譽蓮光上人のとき寺号を蓮光寺と改称した。正保年間(1644〜1647年)に大阪城を設計した中井大和守の帰依を受けて本堂を建立。元禄13年(1701年)に勧修寺二品法親王より山号「負別山」の染筆を下賜され、現在も本堂に掲げられている。京都四十八願寺中、第三十五番に数えられている。
 建物は、天明8年(1788年)京都の大火災および元治元年(1864年)蛤御門の変で焼失、明治29年(1896年)に再建されたがその後老朽甚だしく、昭和58年(1983年)に本堂の改修と書院、庫裏の再建が行われた。
 蓮光寺には仏師快慶作と伝えられる負別如来・弘法大師御作の駒止地蔵尊が祀られている。また土佐の長曽我部盛親公のお墓がある。

     おいわけ
本尊負別如来

本尊阿弥陀如来は、仏師快慶作と伝えられ、寺伝には次のように記録されている。
大法師康慶の弟子快慶安阿弥はある夜、夢の中にて聖僧のお告げを受けた。「東国より客僧来たりて、仏像の彫刻を求められるにつき、その望みを叶えられるべし」霊夢にたがわず、翌日1人の旅僧が安阿弥を訪ねてきた。「我は奥州湯殿山に庵室を結び居る覚明なり。かねてより護持すべき御本尊なき事を嘆きおるところ聖僧の夢告により、上洛して安阿弥に尊像を請えとのお示しにて参上せり」
こうして、お互いに霊瑞の符号に驚き、かつ喜んで、明春三月には本尊彫刻を成就する約束をした。
安阿弥も今度の彫刻は仏勅と思い、一刀三礼のもとに約百二十日をかけて御身丈二尺七寸の新像を完成させ、持仏堂に安置して礼拝していたが、その相好は円満殊勝であり正に仏力の賜と感銘一入にて、我方の護持し奉りたいと思念した。時過ぎて約定の日に覚明は来訪したが、安阿弥は偽って「この度の御本尊は霊告によるものなれば、一刀三礼丹誠を抽んでのことにて容易に成就し難く明春の今頃まで待ち給え。」と言う。覚明は落胆しながらも翌年に再び上京したところ、今度は安阿弥も偽りようもなく本尊を覚明に贈った。覚明は本尊の尊容に大変歓喜して帰途についたが、一方、安阿弥は今一度御本尊を拝し奉りたいという気持ちを止められず、覚明の後を追った。滋賀県との県境、山科の追分でおいついて、今までの委細を覚明に述べて心より謝り、御拝致したく懇願した。
覚明は事の次第に大いに感銘し、唐櫃の蓋を開こうとすると、たちまち内より光明赫然放出し、紫雲がたなびいた。両人思わず伏して礼拝をして、おそるおそる内の様子を伺うと、不思議なことに一体の尊像がいづれがいづれとも申されず、二体に分身していた。
この不思議に両名は感涙にむせび、仏意の御はからいと、各々一体ずつ背負い、覚明は東国に、安阿弥は当地に帰った。爾来、この奇瑞を喜び、この本尊を負別如来と崇敬するようになった。
現に宮城県仙台市泉区福岡に当山と同様の縁起を伝える尊像が奉安されている。なお、仙台の尊像は「笈分(おいわけ)如来」と称されている。  
                                 
長曽我部盛親公のお墓                               
当山墓地には大阪夏の陣に敗れた土佐の長曽我部盛親公の五輪供養塔があり、土佐の人士や歴史研究家などの参拝が絶えない。長曽我部盛親公は関が原の戦いに参戦の後、豊臣家のために再起を期し、京洛の地に大岩祐夢と号して寺小屋を営んでいた。この間、当山の時の住職蓮光上人と親交があった。元和元年(1615年)大阪夏の陣に敗れ、六条河原で斬首されるや蓮光上人は所司代板倉勝重に請い、首級を当山の墓地に葬って供養した。時に盛観公41才、法名を領安院殿源翁崇本大居士と諡した。
盛親公の遺品として、太刀、鎧(片紬)、鐙等が当山に伝持されている。現在、盛親公の出身地である高知県をはじめ全国各地からしばしば参詣者が訪れている。                             


駒止地蔵尊

当山には、高さ八尺の石造の地蔵尊が祀られている。この地蔵尊は、弘法大師の御作で、六条河原の刑場にまつられていたと伝えられている。鴨川の氾濫で埋もれていたが、保元3年(1158年)平清盛の乗馬が急に動けなくなつたので、あたりを掘ってみると、地蔵尊が出てきたという。以来、駒止地蔵尊の名で信奉されている。
江戸時代の中期に霊験が評判で名地蔵と数えられる地蔵尊が21体あるが、その1つに数えられている。
また、この地蔵尊は盗賊に襲われた篤信者を護り、身代わりになって、首を斬られたと伝えられ「首斬り地蔵」の名もあり信仰をあつめている。